史跡松本城の概要
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松本城は北東から南西に緩やかに傾斜した扇状地上にある平城です。
戦国時代の初めに守護大名小笠原氏の支城としてこの地に深志城が築かれ、1550年に甲斐(山梨県)の武田氏が小笠原氏を追放し、深志城を信濃支配の拠点としました。
武田氏滅亡後、小笠原氏が深志城を取り戻し、名を松本城と改め、城郭と城下町の整備を進めました。
小笠原氏が関東へ移った後の城主石川数正・康長父子により、天守の建築(1593年~1594年)などの整備が行われ、近世城郭としての松本城の姿が整えられました。

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松本城の範囲は、総堀に囲まれた内側を指し、総面積は約39万平方メートルあり、その約3分の1を三重の水堀が占めています。
総堀の内側に三の丸、二の丸、本丸が配置され、三の丸は家臣の屋敷地、外堀で囲まれた二の丸は二の丸御殿、古山地御殿、蔵などが置かれ、内堀と外堀に囲まれた本丸には天守と本丸御殿(1727年焼失)がありました。

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天守は、明治維新の際に市民の尽力により取り壊しの危機から救われて現存し、国宝に指定されています。
本丸、二の丸、内堀、外堀・総堀・西総堀土塁の一部は史跡に指定され、天守と一体となって城郭の姿を今に伝えています。




黒門  一の門
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本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門の屋根を見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。これは昭和25年~30年に行われた天守解体修理の際、まだ使える瓦を保存して再利用したからです。その瓦を昭和35年、黒門一の門復興の折に使用したため、いろいろな城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。

この黒門の設計図がなかったため、設計を依頼した市川清作氏が、名古屋城の渡り櫓門を参考にしたと言われています。

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市川量造と小林有也のレリーフ
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向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

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松本城は戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりで、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。

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松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守です。

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松本城は標高590メートルの盆地内平地に位置しています。平地に築かれた平城です。城郭を囲む三重の水堀と土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備えていました。三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていました。


つづく・・・